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俗世に紛れた小石

自分の記録。

2006/11/20
善いことや幸せなことというのは、道端の小石ほどありふれている。
どこを見ても目に入る、当たり前のもの。
手を伸ばせば、必ず手に入る。
4年前、田園風景のなかをひた走る特急列車の中でそれを知った。
山や畑ばかりの土地から、人や車であふれた大都会へ。


しかしおそらく、それはまだ可能性に過ぎなかった。
それが可能的である、というだけで満足だった。
そういうつもりでいた。


電柱の下に生えた雑草。
スズメやカラスの群れ。
小さなパン屋。
場末の食堂。
深夜のコンビニ。
狭い空。
排気ガスのにおい。
優しい人、意地悪な人。
頑張る人、怠ける人。


そのどれもが、尽きせぬ小石でありうる。
私はそれまで知らなかった、あらゆる可能性をみた。
また、どこに行って何をしてもそうなのだと知った。
知ったことで、大いに満足した。


だが、私は手を伸ばさなかった。
すぐ目の前にある小石の数々。
たくさんの人々と、その周りであふれる可能性に。
それだけでも世界は十分にすばらしい場所である、と独りごちした。
自らは触れるつもりが無いのに。


しばらくして、私は他人に何事かを働きかける機会を得た。
私はそれを、誰かが小石を拾うための絶好の機会だ、と喜んだ。
私の目の前にある、あふれんばかりの小石を。
まるで誰かに拾われるのを待っているようだった。
その目論見は、うまくいったり、うまくいかなかったり。
いちいち歓喜したり絶望したりした。


またしばらくして、なぜか私は他人に親しまれるようになった。
そういう他人は、きっとそういう小石をどこかで拾ってきたのだ。
そういう可能性が、私の目の前で実現したということなのだ。
そう思って喜んだ。
私もまたそういう小石を拾ったのだ、と。


いつしか、私は笑うことが増えていた。
親しい人を見て自然と笑みがこぼれ、そのことにたびたび違和感をおぼえた。
楽しくも可笑しくもないのに笑うのは、悪徳ではなかったか。
私は、こともあろうに愛想笑いをしているのではないのか。
なにか、おかしい。


手を繋いで、おんぶをせがむ女の子。
森の話を聞きたがる大人。
私と共に、自信を見つけようと一生懸命の中学生。
私と手を繋ぐのが、楽しいのか。
おんぶしてもらって、面白可笑しいのか。
森の話は、聞く前からそんなに可笑しいのか。
自信は、見つける前でも楽しいのか。
それとも皆が愛想笑いをしているのか。


・・・・・それは、違う。


やっとわかった。
私こそが小石なのだ。
私自身が、尽きせぬ小石。
種々雑多な世の中に、可能性をもたらすことができる。
実現することができる。
自分に対しても。
私は、その意味に気付かなかった。


俗世に紛れた小石。
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