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白紙の回答用紙2

引き続き、講師テストです。

興味のある方、回答したい方は追記へどうぞ。

誰も見ないからVestaの回答公開。
講師テスト 裏面


問4) 記入欄の担当教科をふまえて、次の授業で大きく扱いたい事柄の概要を説明しなさい。

ある数字・文字の0乗が1であることについて、例を示す。
aの3乗 = a × a × a   aの2乗 = a × a × a   aの1乗 = a × a × a
そして、
aの0乗 = 1 → 1×aを0回掛ける = 1 × a × a × a

・ どんな項・数字・文字にも「1×」が隠されている点について。
・ これを利用したもの・・・分数の計算における通分などの復習。
・ 上の例はどんな意味をもつのか。

まず、何事かを考えたり、考えて操作したりするためには、
「対象が存在する」ということを初めに決めるか、少なくとも仮定しなければならない。
つまり、対象となりうる全てのものを「存在する」と置かなければ、
どんな操作もすることができない。
何かの思考・操作をする際に、定義する・規定するということの大事さ。
まずひとつのものを「存在する」と規定するということが、数学における「1」の価値である。
いかに「0乗」で1回も掛け算をしていなくても、式が存在するので答えは1になる。
この「0乗」の例において、
「1」という数字は普段考えていることと別の意味も持っていることがわかる。
「1 = 存在する」、という意味について確認したうえで、では「0」とは何かを考える

・ 何もない、あるいは、無い、という意味に着目する。
・ 簡単な計算で、0の「なにもない」という意味について確認する。

何も無いのだから、
a×0=0 なのに、「aを0回掛ける操作」が0にならないのはなぜか。
その理由と、0について他に意味がないかどうか、
0の性質は、数学においてどのように定義されていると考えられるか。

面白い語り口で余談をいくらか交える
・ 中国の思想家・・・「無」を概念化することを弟子たちに禁じた思想家について。
・ 数学界における0の処遇について、これまでの経緯を簡単に説明する。
・ 0が歴史上に現れたのはいつどこでなのか、そしてこれは発見なのか、発明なのか。
・ 0の今後の可能性
・ 「無い」あるいは「存在しない」ということをどう説明したらよいか、生徒に考えてもらう。

普通に行われるであろう数学の授業に上記の議論を交える。



問5) 教師・教諭・教授あるいは講師として、最も実践したい教育はどんなものか。
    現在していることとは別に希望があれば書きなさい。

上記の授業のような教育だけを実践したい。
できることなら、上のような手加減は一切なしで。
とくに授業中の生徒と講師の間に対話が成立するもの。
できれば、同じ志を持った友人と私塾を開きたい。
江戸時代の私塾のようなものが理想。
当時と同様にスポンサーが居なくては成り立たないが。
生徒は全うな数の語彙に耐えうるのであれば、年齢は問わない。
ただ強いて言えば、17~20歳ぐらいが将来的にも良いと思われる。
人と成るためだけの私塾であって、受験産業とは関係ない。
滅法金にならないが、もし実現すれば、内実廃れきった日本の大学の2次試験などは、
生徒たちにとって当然屁以外の何物でもなくなるであろう、と我々は踏んでいる。
学力的に効果が上がるのかどうか、という懸念を持つ人は多いと思うが、
今のところ上記のような授業を少なからず行っているなかで、
300点満点のテストで生徒が50点点数を上げることができた、という事実は、
そのような懸念に対して決して暗い結論を与えるものではない、と私は思っている。
つまり、学力と思考力を両方重視した教育は少なくともいくらかは可能だ。
それをはるかに上回る実績をあげた者もいるので、講師の力量によるものなのだろう。
そういった教育を行う私塾の経営、会社の形態、講師の力量、生徒の募集、講義時間、
色々考えてはいるが、出資者がいなくては始まらないので机上の空論に終わるかもしれない。


____________________________________

どうです? 何て答えます?

前は白い字で書いてたんですけど、誰も見ないので回答を公開しました。

ごめんなさい白紙じゃないですね。

ま、どーせ誰も見ないだろーけど~
ふーんだ。
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コメント

講師テストへの(拒絶)反応

講師でありたくない。

私はいま時給を頂きながら、
大学受験生を対象とする予備校で個別指導をしている。
だが、その状況は惨憺たるものだといわざるを得ない。
切り売りされた知の(ずさんな)再生産。
先哲が築いてきた知の悲鳴が聞こえるようだ。
「本質を教える」ことを謳うわが予備校に
あっても、知識の切り売りという事態は
現実のものとして起こっている。
それはdeconstructionではない。
それは単にdestructionなのだ。

では、どうすれば?
厭なら、私が辞めればいいのか?
そんなことはない、と考える。
そんなもので済んでたまるか。

与えられた解答群から驚くべき速さと
正確さで、「正しい」ものを選びとる生徒は
少なくない。
みな優秀である。
だが、なぜそれが「正しい」のか。
予備校講師たちはそれを説明している、
と主張する人がほとんだ。
が、私のみるところ、最上級の生徒たちを
担当する者たちでさえ、その解説のほとんどは
字面を訂正することに終始しているではないか。

あらゆる科目は、数えきれないほどの前提を
鵜呑みにして教えられる。
数多くのことを鵜呑みにする。
それは人間一般にとって自然なことだ。
しかし、それはある意味での思考停止と
言わざるを得ない。
周到に用意されたパズルを、
同じ前提を共有することを暗黙のうちに
強要されながら「正確に」解く。
こんなものが教育なのか。
それが教育で、
講師とはその教育に邁進し、
思考停止を推進する存在であるのだとしたら?

私は、講師でありたくない。

好奇心に満ちた時間を、
ただ「生徒」と呼ばれる自分よりも少し
若い人たちと過ごす存在でありたい。
であるならば、Vestaの考えには
見るべきところがあるのだろう。

あまりに非現実的なあのプランは、
いまだ孵化していない。
無自覚な鵜呑みに支配される、
この退屈な世界にあってそれはあまりに無謀だ。

しかし、賭けてみてもいいのではないか。

相変わらず辛そうだな・・・・
読んでくれてありがとう

君のコメントを読んでいて、思い出したことがある
たぶんここの話とは関係ないんだが、聞いてくれないか?

同僚が、いまカブトムシを飼ってるんだよ
本当は子供にねだられて買ったものだったんだが、
子供の代わりに世話をする羽目になったそうで、
今ではすっかり、同僚が世話係ってわけさ

で、いやいや世話をしてるうちに、カブトムシは思いの外繁殖して・・・
それでな、最近幼虫が不思議な行動をしたり、
蛹になったりして、いろんな変化があったそうなんだよ

同僚は、人に教わって、飼い方をよく心得ていた
だけど、カブトムシはなぜ蛹になる直前に土の上に出たのか、とか
蛹のなかでは何が起こっているのか、とか、本当に色々、
わからないことだらけだったらしい

で、私はいろいろ訊かれたよ
少し遠慮気味にな
だから丁寧に教えた
そしてこちらからも質問した
「カブトムシはこんなこともしてませんでしたか?」
「カブトムシって、自然にはどんなところに住んでると思います?」
同僚はとても楽しそうだった
一生懸命に考えていた
それから今度は、たくさん訊かれた
私はたくさん教えた
同僚は、これからの蛹の変化が楽しみだ、と言って喜んだ
そして、これから毎日観察しよう、と言って嬉しそうに帰宅したんだ
本当に愉しそうにしていた
いまでは、出社すると必ず、
私にカブトムシのことを報告するようになったんだ
そして不思議なことがあれば、自分で色々考えて、私に意見を求める
少女みたいで、とても微笑ましいよ
本当に幸せそうだし、な

だけどな、
その同僚は、私の二倍近く生きているんだ

なぜかそれが、堪らなく悔しくなることがある
なんでだろうな

いや、単に傲慢なだけかもしれん

せっかくコメントくれたのに、くだらない話してすまん
あのことは、また話そう
もう少し調べ物をしておきたいんだ
管理者にだけ表示を許可する

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